• 古典から学ぶ

No.62

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No.62
•厳しい実践家が兼愛し守るのが墨子
_(「非戦」ではなく「非攻」で有名な墨子,実は日本は戦後の軍隊の持ち方で,当たり前の感覚でいますが,大戦前までは軍人としては異質な方,常に攻める方が優位なミリタリーの世界では,僕も📄でやってのけて,だから党で大切に扱って貰えるのですが,けっこう珍しかったりする,なので中国では孫呉の方が断然評価は高いのだが,墨には兵法書の面は最後だけで,政治支配者の心得を説く章の方が多い,

尚賢上篇には,
「義ならざれば富まさず、義ならざれば貴くせず、義ならざれば親しまず、義ならざれば近づけずと」,
他にも「爵位高からざらば則ち民は敬せず、蓄禄厚からざれば則ち民は信ぜず、政令断ぜされば則ち民は畏れずと」
「三者を挙げて之を賢者に授くるは、賢の為に賜うには非ざるなり。其の事を成るを欲すればなり」 など,

なかなかお経やイエスの祈りと同格に唱えていると,ご加護だけでなく精神性も締まってくる,霊がアホばかり寄ってくるようになった場合は,寺や教会の祭文で追い払うだけでなく,頭が良くなる実学的な文章の性格が強い墨家は,韓非子の法家と共にかなり唱えるものとして,重宝しています,さらに墨には守城戦の傭兵集団という側面もあり,ここを唱えてあげると霊的に堅くなるかなとも,ならば孫呉もという話にもなりますが,現代だって殺人術より護身術を,市民はまず身につけるべきで,仏さまや主から御加護を頂きたいのなら,威力よりも此方を優先する,大きな敵を退治するのはやはり神仏仙主でなくては,無理なので聖属性が好むもので初心者は身を堅める,とは言え僕の手持ちでは号令篇しか,まだ守城の技術書の部分はないのですが,

それでも,
「城上の卒若しくは吏は、各々其の左右を保す。若し城を以て外の為に謀らんと欲する者は、父母•妻子•同産も皆断ず」
「署の左右を離れ、共に他所の左右に入り、私書を挟み、請謁を行い、行書を為すに及ぶ者を捕らえず、守事を釈てて私家の事を治め、卒民の相い盗むは、家室•嬰児まで、皆な断じて許すなかれ」
「人は挙げて之れを籍し、符節なくして軍中を横行する者は断ず」
「令に従わざる者は皆な断ず。禁じて矢書を挙げ、若しくは書を以て寇に射るを得せしむる無かれ。令を犯す者は父母•妻子も皆な断じ、身は城上に梟す」
「私怨を以て、城若しくは吏の事を害する者有らば、父母•妻子も皆な断ず。其れ城を以て外の為に謀る者は三族す」 など

 精神性のみでも堅めるには有用,そんな僕の「祭文←(笑)」,知って参考にすると皆にも役立つかも知れません,中国古典の名著ですから技術的にも外来で,市民層にも気軽にインフラ化がし易い,江戸時代には寺子屋で同業諸子百家の儒家は,日本に定着済み,ならば墨家も良いではないかなとも,わが国が更に頑丈に堅くなれば、と,願うのです)

No.63

🗂️緑 古典から学ぶ2
No.63
•目上を気にせず法家を持ちなさい

_(儒家と現行法規の話をしましたが,法家思想全開の僕にしては意外にらしくない反対の意見になる,刺客列伝も韓非は否定的だが無いと君主が甘える,だから残っていて縦横家も同じ理屈,僕は弱者の戦略としては墨家をとりましたが,法墨は地理的に守り易い立地も要求されるので,当時を含めた十字路の人達はどう考えていたか,縦横家の文はその為にいつか勉強をしたいなと,

実は始皇帝のレベルではなく中程度の君主を想定しているとは言え,上にたつ人間が間違えない前提の韓非子,それは法家の問題ではなく人の資質の問題とも,ここは見ない法家思想はそういう論法になるが,それは韓非の都合であり学問的技巧の類でもある,だから世の中には刺客侠客から儒の学問まであり人間世界の完全でない君主を見張る,これはこれで法家のみでは世の中は成り立たない,それは中国春秋戦国時代から現代日本社会まで,まだまだ未熟な人間世界の真実でもあり,論理で韓非子を非難する事は間違い,ないと社会はボロボロの恐怖社会になり,儒はともかく刺客も墨家もウーシューもアンダーグラウンド化で失敗する,

この点に気をつけて是正をしたらそれらも持っていてよく,かつ法家思想の論理や為政者は暴走しないなら,圧政を怖がらずに韓非子を愛読しなさい,ないと孫呉で空威張りの山賊がせいぜい,兵書で戦うに矢玉も人も銭も揃えれない癖に,そんな輩にはならない為に,弱国君主の心得としてまず墨家を採用したのですが,法家に聞くと彼らは孫呉の兵書を使い攻める兵隊と国づくりをする,弱国向けとして買った守城戦のみの墨家は,その独自性から採用して良かったとも,

昔も今も実は戦争など出来ない為政者もまた多い,日本は極東の島国という珍しい立地と,経済と技術が世界レベルで人口も1億2千万,魂の遍歴として域内最強だが,いつも外との勝てない戦いばかり担当しそれを野戦技術ばかりでやらされた,軍事としては実は下策な籠城戦も平時の鍔迫り合いと国づくりなら,やってみるのも良い機会かなと,世界の60億人に1国で対するのも,日本なら1人につき相手60人倒すだけの話,物量的にも意外に楽な事実もある,城に籠もれば可能な人数差なはずで,墨家はそれを保証する書物にも成り得る,韓非子から話は流れましたが神仏仙主の祭文と共に,大切に唱えている理由もここにありそうです)

No.64

🗂️緑 古典から学ぶ3
No.64
•非楽篇非命篇を怖がらず愛読しなさい(上)
韓非子も音楽や宿命を非難する文章が散見されるのですが,命に関しては墨家に至ると「而るに強いて此を執る者は、此れ特だ凶言の自りて生ずる所にして、暴人の道なり」とまで,これも科学者は諸手を挙げて賛成しそうですが,僕自身はもう少し柔らかく両者の欠点を治める思考法をしたい,

まず占いは堤防の外の天気をみるようなもの,農家は水が溢れる事はまれなのに毎日欠かさず天気予報を見る,それと同じように非命を掲げ努力する環境でもその外の運命宿命は調べても構わない,それでいて晴れの日も大雨の日も何一つ堤防の内側は変わらないのですが,堤防を作れるなら占術はたしなみとして学ぶと人生はまた豊かになります,占術にも敬意を払い迷信でなく学問として偶する,ただし遺伝学に近い生まれつきの優勝劣敗な統計学ではなく堤防をメンテナンスする為にお勧めをしたいです

だいたい神仏仙主の御加護が堤防になるのですが,四柱推命が今日死ぬと凶を出しても紫微斗数の吉で逃げる三面見のやり方に,僕は唯物史観で完全無視する科学の態度も神仏仙主にハイブリッドの匙加減をして貰いながら御加護という堤防を浪費しないようにする,本当に危ない時は主の比率を高くしていく逃げの保険すら用意しています,ここまで準備をしたら振り回される事はないのではないかと,占術家への敬意の向け方と先生の側にも慣れてもらう必要ありますが,ここを整理整頓して共通理解にしたら風水含めて国家の技術に組み込んでも宿命論に振り回されて為政者が国を傾ける事はなくて,かえってメンテナンスの中でキッチリ作り込むのではないかなと

No.65

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No.65
•非楽篇非命篇を怖がらず愛読しなさい(下)
非楽の方は墨子自身も音楽は心地よいものとまず認めている
「大鐘•鳴鼓•琴瑟•竽筮の声を以て、以て楽しからずとは為さざるなり」
「身は其の安きを知り、口は其の甘きを知り、目は其の美しきを知り、耳は其の楽しきを知ると雖も、然して上は聖王の事に中らず、下は之を度るに、万民の利に中らず」
「是の故に子墨子曰く、楽を為すは非なりと」
ここを無視して音楽に触るなよとは心外な誹謗中傷でどっちか選べと高飛車に言われるのには受け入れる気にはなれないです

しかし当時の財産に比べてみたら音楽は浪費の類,君主は手を出さず生産力を優先すべきとは当たり前ではあった,事実インフラが安定し豊かになった現代では音楽も産業として成り立ち手軽になった楽器の制作費から蓄音機とレコードで庶民が家で好きなだけ聞ける,これなら全然問題なくかえって奨励しても良いくらい,墨が正しいか歌が正しいかではなく時代の条件も議論に加えて欲しいものです,昔は一握りの会場にいる者のみたまに聞くだけでかつ楽器も奏者もカネがかかった.質実剛健な国づくりを目指す墨家だと好んでも手放して統治を優先すべきと教えるしかなかったのではないかと

特に経験から占術には苦労して戦った事もあり最後には主に頼らざるを得ない時期もあった,そのお礼も兼ねて墨子の非命篇と韓非子の同様な部分は唱える事に力を入れて主のお手伝いになれればとも日々努力しているのですが,主と違い人間として下の世界に生まれている身では全く同じ態度で占術を全否定はしない,堤防の外を知る技術としては大切にして非命篇などを熱心に唱えていても,占術や司る神々に礼を失する態度にはならないようには気をつけています,この辻褄合わせに近いやり方は先を見据えた仕組みとしての,唱えるおつとめとしてのインフラ化も含めて国家や民族の資産や参考になればとも,文章が長くなりましたが記録に残しておきますね

No.66

🗂️緑 古典から学ぶ4
No.66
•今朝の時点で食べれるものがなくなりコンビニへ

実は昨日の深夜から。
既にない状態で仏壇のお菓子や保存食を勝手に開けて食べていた始末。
「子路ために豚を煮る」とうそぶきながら。

どうも先生が困っている。
(道ばたで)カネを出せ!と。
こんな感じかと。
笑い話を独りで考えてウケるかなと計算しつつ。
墨子の原典の方は。
「人の衣を剥ぎもって酒を買う。孔某は酒の由りて来たる所を問わずして飲む。」
とありますが。
批判する書き方をしてあって僕はそのまま唱えてはいますが。
やるよねコレはと。
正直に白状しながらそう孔子先生へ悪くは対さず。
自分もサバイバル以外はなるべくしないよう戒める事に意識を向けて。
堂々とお経と一緒のメニューにはしています。

No.67

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No.67
•インドから最新のお気に入り格言追加を
バガヴァットギーターから

「あなたは嘆くべきでない人について嘆く、しかも分別くさく語る」
「賢者は死者についても生者についても嘆かないものだ」
これから決戦に向かう神話の英雄アルジュナに向かって教えられた言葉

これが老子だと
「聖人は仁ならず。百姓をもって鄒狗となす」となる
昔の賢者や聖人とは学者でもあったがもっと問題解決をしていた人たち
ちょっとイメージが違う
頭脳勝負の世界でも大成したいと思う人は是非頭に入れておくのも良いかなと

No.68

🗂️緑 古典から学ぶ6
No.68
️‍•最近バガヴァット•ギーターを熱心に唱えているのですが

「いたる所で水が溢れている時、井戸は無用である。同様に、真実を知るバラモンにとって、すべてのヴェーダは無用である」
誰よりも伝統的な教典が好きな僕の逆説的だがお気に入りでもある一句

_(『マハーバーラタ』というヒンズー教の2大叙事詩のうちの一つの,そのハイライト直前の一部を抜粋したものが『バガヴァット•ギーター』で,この後にパーンダヴァ派とカウラヴァ派の英雄たちによる決戦が物語にあり,そこでの16日間の激闘で敵味方の勇士たちが悉く戦死していく,インドの人は決戦が以外に荒いそんな感想も持ちました,️‍以前ゲーム「ジルオール」のオープニングを2005年時点のプレステにしては画像に力をいれていて,特にBGMが印象に残っていたと紹介した,そのオープニングの終わり方みたくゴォーっと曲の雰囲気に合わせて真ん中に集まって消えていく,インド映画の大勢で歌って踊っているイメージとは️‍かなり違ってビックリしました,

日本の歴史では実は拮抗した勢力の決戦はあまりなく一番有名な関ヶ原でも政治的に内応の調略済みで社長の株主総会に近い,殷王朝から始まる古代中国の王朝交代劇での決戦も既に疲弊しているから易姓革命が発生する訳で倒す方があっさり勝っているケースが多い,️‍それを考えるとインドは意外でした,ガンダムseedのお面みたく両方潰して楽しんだ黒幕が南のおとーさん属性が強いインドなので神話世界の昔にも文献の外側に居たのではないかなと,そんな危ないブルー祭りだった可能性もありそうです,それでも勝負して文明は進んでいく,️‍

「行為の結果を考えるな。 無為よりも行為の方が大切である(←中国とはちょっと違うお国柄)」

「人は行為を企てずして、行為の超越に達することはない。また単なる行為の放擲のみによって成就に達することはない」
「あなたは定められた行為をなせ。行為は無為よりも優れているから。あなたが何も行わないなら、身体の維持すら成就しないであろう」

だから決戦しろと,バガヴァッド•ギーターとはそういう話,哲学の伝授と同時にしっかりと悩める英雄に語る,そして16日間の激闘へ,何もかも消えたが「ゆでガエル」の方が国は文明は滅んでいく,️‍青魂が強い土地で繁栄した形あるこれらを維持するにはどうすればよいかインドの人は理解をしていたみたいです)

No.69

🗂️緑 古典から学ぶ7
No.69
•イエスの文ではないと言われても別に平気
_(旧約聖書はユダヤの文なのだろう?,文章が実際に広まって慌てて論説みたく騒いでますが,僕の場合は昔熱心に唱えていた際にイエスがユダヤ教にあがりとられて嫌がった,それが自主規制の理由なので,別にいつでものし掛かれます,ただキリストへの信義則を僕個人の話で大切にしているのと(つまり現在の戦況でまだ余裕。手出す必要性を感じていないv),普通の人は詩篇唱えていても平気なはずで,どうのこうのは主が許さないのでは,だから流れを潰したい高圧的な議論は無視して,皆で唱えまくってはどうかと,それが出来ない人でもアッラーならコーラン第2章189~190や,キリスト者にもヨハネ黙示録がある,

「だれによらず汝らに不当な行為をしかけたら、汝らの方でも向こうからされた通りの不当な行為で返報せよ」

と高らかに謳ったコーランを始め,詩篇とはまた違った効能を,主は後代に成立した自分の子達に向けて用意されていて,イエスのヨハネ黙示録に至っては向こうの眷属たちが帰っていく,人間に対しては詩篇のユダヤの勇ましさやコーランの容赦なさも見事ですが,実はキリスト者の黙示録が人間以上の類も追い返して一番強かったりする,なのでユダヤと仲が悪く詩篇が無理でも気を落とさずに,代用可能な文はどちらにも用意されています,コツとしては普段は他の優しい祭文もたくさん唱えて,そのメニューの一部として身体を慣らしていく,唱えて即解決みたいな,赤ちゃん憑きの世界ではないので,しつこく入られてしつこく撥ね返す,強弱のつけ方で相手を痛めつける,優しい祭文でも毎日熱心に唱えていれば神仏仙主は教えてくれます,WEBで広めて皆が知っていればいつでも直ぐに手にして歌い始めれる,なので怖がらずに,まずは急がず身の回りで真面目で明るく安心な環境を維持し,一生懸命生活をブラッシュアップしていく事を,オススメします)

No.70

🗂️緑 古典から学ぶ8
No.70
•ゼウス神というのはギリシア人が少ないから

人間も性に関してはそうなのですが,文明度の高さと処女神を大切にして興味などなくなるはずの割には,ああいう神話を妙に残している,主神なのにやたら人間の女性との間に子を残すエピソードばかり,ライバルだったペルシアとエジプトに比べると人口が圧倒的に少なく常に悩みだったため,今の動物園にいる各動物の子たちみたくあまりに条件が良すぎると繁殖がなぜか難しくなる,これは現代社会で少子化になった本能的なものとは別にまじないがペナルティで止めようとする,古代ギリシアの環境は自然界から見たら動物園に近い珍しさで子孫数をやせ細らせてから滅ぼすまじないの狙いと神話からして必死に戦っていた,馬鹿丸出しの淫祠邪教とは違うので悪しからず,ギリシアの人口的な条件変えたらゼウス神はまず手を出さないです

女神の側の代表みたいなアフロディーテさまの話は此方へ引っ越す前のLINEにupしましたが,基本的には考え方もゼウス神と同じなはず,ただ戦神でもあるので人口が少なかったのが嫌だった,だから子孫が逃げたローマで多民族との同化政策で量を作り込み,性欲丸出しの馬鹿が出て来れないインフラ化を徹底して大帝国にした

性愛を司る神とはいうが相手を選ぶ方で実は基準に満たない嫌いな男の方が多いのも知っている,異性の若いお気に入りには理想仕込もうと躾は厳しかった,僕もB.C.時代からお手伝いして既にアレッポの石鹸とお湯で身体を洗う習慣を持ちその威力を魂の底から知り尽くすが,アフロディーテさまは男を僕は女が対象になり他人より遥かに渡しているリソースの損失でカッとなって,まじない絡むと誰よりも女子供に残忍になる癖に女性の扱いで常に腕力とモメ出してクラッシュばかりになる,今生はなかなか上手くいかず教えはするがビタ一文出さずぼーっと眺めている状態です,人口が多ければ多いで苦労は耐えないが少なくて必死だったギリシア神話とローマ神話との微妙な違いを知ってみればまた人生は豊かになると思います

No.71

🗂️緑 古典から学ぶ9
No.71
•内儲説の事例は独特(上)

まず法則を列挙しておいて,後半は事例をだらだら連ねてある,しかも法則に反した史実ばかりを説明抜きで,だから韓非の信奉者である僕が唱えていても反証されているみたいで,違和感があった,でも何回も繰り返し唱えていると,こういった事を防げるんだよというワクチンみいに染み込んでくる

僕は法術の「術」を神仏仙主の御加護と規定して,他の宗教の経典を唱える事を勧めているのですが,法家としての術は人心を洞察する力,この判断のバックボーンのデータベースとして何回も内儲説を唱えていると身体が動くのではと

普通は法則を教えた後に事例を出すならば,防いだ事例を出して説明も加えるが,韓非子のこの部分は,防げなかった事例を列挙してあって,その説明もなく敵の勝ちじゃねえかと曲解されかねない構文になっている,先に「術」としての洞察力の基本を唱えて,そのまま防げなかったケースを唱えると,深層心理でなのか対比して判断の基準になるデータベースみたいなのが染み込んでいく,わざと説明なく,防ぐ法則のあと防げなかった事例のみを対比させるのも,この間のうやむやした試行錯誤を,唱えている間に各自の深層心理でやらせる為とも言えます

七術六微の法則を並べてケーススタディも列挙してあるが,1法則のあと1事例ではないのも,学問として教える側の都合で少しただ取りを警戒したのではないかなとも,信賞必罰から形名参同まで何事も皆に明確化を勧めている韓非子ですが,そういった「法」とは違い,もともと「術」は君主のみがコッソリ身につけるべしとの,法家思想ですらそういう教えなので,敷居をちょっとだけつける意味もあったかも知れません

No.72

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No.72
•内儲説の事例は独特(下)

アメリカ式のレッスン→成功したケーススタディでの分析という,知識の身につけ方とは違う,→から後は,ここは日本も頑張った失敗学+分析を伝えない中国禅お得意の不立文字にて,各自の対応力を法則での解決以上に可能にしてしまえるかなとも,中世ドイツであったのですが法律で悪さを全て禁止しようとして,細かすぎるくらい細かな法律を大量に作って煩雑過ぎて失敗した,法曹界でブラックジョークに使われる逸話でも分かる明確化の限界すら,この法家思想は理解して意識していたのかも知れません

解老篇での詩的な書き下し文は唱える際に老子みたくでお気に入りで,唱えている時は心地よい気分に浸れるのも確かなのですが,しかし徹底を求める法家なのに,どこか反対のものを残す老荘思想には違和感もあるのですが,韓非がこの著作に御加護を欲しくて,老子道徳経の注釈を無理矢理テキストに挟んだという意味だけでなく,法哲学だけでなく統治の哲学として,現実に自らの国家を強国にする為の実用に足るものに仕上げるには,本人の責任で決済する力,そしてその拠り所になる「術」も必要でその矛盾の解決には,中国人としてやはり老荘思想に走ったのではないかなとも

ただしこの「術」になると個人の資質により差があまりにも出てしまう,そういう洞察力を学問として顧客にどう提供し身につけさせるか,韓非はここを書く時に君主を弑す側に負けていたとも解釈されかねない,妥協案みたいな構文も,本人は意図しているかまでは不明ですが,意外に活用できるものになっています,外儲説ではさらに蛇足的にたくさんこの訓練の題材が付け加えてあって,法則の凝縮によるエッセンスとは違った量をこなす独習も可能になっているみたい,喝破みたく通説を法家思想の視点から斬り伏せる難一~四以外は,岩波文庫の第二冊第三冊は使いにくいと感じていたのですが,「術」の判断基準をデータベースとして深層心理に染み込ませるには,繰り返し唱える習慣のある者にはかなり上手く構成されているかも知れません,ちょっと発見だったので皆の知識にして活用して貰えたらとも

No.73

🗂️緑 古典から学ぶ10
No.73
•曹洞宗はトラウマが噴き出る(上)

上意下達より質の悪い盲従と衆愚政治の組み合わせが嫌いな僕は
この裏にいる権力者との睨み合いには必要なメンタルとして
「仏に逢うては仏を殺し祖に逢うては祖を殺せ」とまで喝破する
インドの瞑想と思索ともまた違う中国禅はかなり重視をしていて

ようするに「それはそれ」「これはこれ」と好き勝手したいだけなのだろうとまで
言われてたりもするのですが
僕自身も天才の作り方のコツとして
「すべて己で負う。論理すらなしに」と
ただし小さな日常の私生活での選択肢で練習と数をこなしなさいと
決断の果実をすべてガメたパワーを身につけるコツも伝えたりしているのですが

日本に根付いた2つの禅宗のもう一方の曹洞宗になると
カッコいい臨済宗の喝破とかは一切やらせずに
何一つ考えず何一つ求めずに
ただ座禅をしていろと
公案で人も育てれないと揶揄されていても
無用の用みたく臨済宗と言い合いして逃げていたりもするのですが

禅宗の強かった鎌倉時代でも実は数の多い下級武士は曹洞宗ばかり
公案などさせてもらえずに
格好だけ同じ座って誤魔化してもいた
とはいえその誰でも出来る只管打坐の故に臨済宗と比べて日本で檀家数も圧倒して多く
臨済宗みたく「人間を産む」禅としての凄みのない代わりに
曹洞宗は中国でも達磨大師から始まる崇山少林寺を抱える拳法の総本山であったり
他の宗派とは違い日本曹洞宗として
◯◯派として独立とかせず一つにまとまっていたりもする珍しさもあったりします

No.74

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No.74
•曹洞宗はトラウマが噴き出る(中)

とはいえ今の時代では心理学のカウンセリングから各種セラピーまで揃っているのですが
昔にはこういった技法は何もなく
スッキリすると侍たちはよく座禅道場に足を運んでは
自分の深層心理の整理整頓を無意識の部分にやらせて
一瞬軽く弱くはなるが
明るくなる数少ない日本に伝わった技法として心身を整えて
また自分の仕事に戻っていく

やはり臨済宗と比較するとセラピーレベルじゃねえかとも
まだ言われてはいたりもするのですが
この座禅の最中に吹き出すものをみて曹洞禅の師匠は座ってる者の品定めをする
まあ一般の方が通ってくる分には
セラピーとして吹き出した後の自分が世の中で働く事が大切と教えてもいますが

曹洞宗内部での座禅による出世だと言い方は悪いのですが
吹き出した後の働きではなく
何を吹き出したかで選り分ける
後天的に意識下の条件を整えて才能を発揮するのではなく
ロシアバレエみたく発揮する前の才能あっても蹴落とす骨格での判断みたく
後から得る「悟り」すら否定しかねない

座禅で吹き出したもので判断してオマエはこっちへと脇へ出される
しかも出された後で「悟る」のは別に構わなく
まあ頑張ってみろと送っていく
この僧侶はこの後新天地でそれを生涯目指していくのですが
曹洞禅の道場ではまた残った者と新しい者がただ只管打坐を続けて
吹き出した瞬間自分が「終わった」と運命の歯車回る送り出され方をする
吹き出し方が最善だったか
最後まで吹き出さなかったかのどちらかが
今でも曹洞宗の僧侶として選ばれて上位にあげられているのではと
だから臨済禅の名僧が何人チャレンジしても
意外に曹洞宗の高位の役職にはつけなかったりします

No.75

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No.75
•曹洞宗はトラウマが噴き出る(下)

ただ座り続ける事の怖さ
実は和食や職人の丁稚奉公なども何年もの米とぎでここを見ているのですが
仏さまもとで騙させず業務ではなく「動かない」手法で吹き出させると
モロに個人個人の素性から心根まで丸見えになるみたいです

僕も座禅は自分の部屋で少し試した事あるのですが
3分またずに身体が痒くなって続かない
人が良いとは世間的には言われてる自負ありますが
この表面的なレベルでは座禅は吹き出すとアウトも貰いそうです
まあ仏さまからは「禅はやるな」と言われて
「市井で働いてこい」と言われただけではあるのですが
臨済禅の名僧や社会で仕事をしている人は
案外曹洞宗の道場では吹き出すと𠮟られる溜めこみ方をしているかも
社会に働くとはそういう事でもあるのですが
崇山少林寺の南拳で身体鍛えた人もまた無理だっりする
「達磨大師ご自身がアウトな世界をせっせとご自身が整備した」
「お釈迦様に導かれてお前まだまだだよと言われながら」
いかにも矛盾を楽しむ禅宗好きがやりそうな事でもあったりするのですが
「では曹洞禅で吹き出したもので誰か良いと判断されるのか」
実はポーズだけと揶揄される只管打坐
悟りとは簡単ない只管打坐でも
けっこう凄みあったりや愉しめる場でもあったりはするみたいです